先週の木曜日の「まいにちフランス語」で扱われていた、
ジャン・ド・ラ・ブリュイエール の
「きれいな家(Une jolie maison)」という文章。
遺産として受け取るものが列挙されていくのだけれど、
最初は「大きくて美しい家」から始まり「美しく立派な馬」と大物が続く。
そして最後は、形容詞もない、ただの「時計」で終わる。
そのそっけなさが、なんとも彼らしい皮肉だと思った。
この講座を聞いていて、ふと昔見た出来事を思い出した。
ある人が亡くなったあと、
その人の身の回りのものが整理されたときのことだ。
残されたのは、家や家具や車のような、
動かしにくい大きなものばかりだった。
一方で、手に取れるような小さなもの——
たとえば身につけるものや、日常的に使っていたものは、
いつの間にか姿を消していた。
なんだか逆だな、と思った。
ラ・ブリュイエールの時代は、
「大きく立派なもの」が価値として語られていたのに、
今はむしろ、持ち運べるものや、
個人的に身につけられるものの方に、価値が集まっているように感じる。
大きなものほど、残された側が扱いに困ることもある。
もし彼がこの光景を見たら、
どんな皮肉を書くだろうか‥。
そういえば、翌日の講座「馬車ですれ違う(L’on s’attend au passage)」では、
人が他人を持ち物で値踏みする様子が描かれていた。
時代が変われば、モノの価値は変わる。
けれど、人が「何かで人を測ろうとする感覚」だけは、
あまり変わっていないのかもしれない。


コメント