8月27日と28日の「まいにちフランス語」応用編では、
ディドロの『ラモーの甥』を読み解きました。
……難しかった。
いや、フランス語が難しいのはもちろんなんですが、内容が難しい(笑)。
『ラモーの甥』の主人公は、名前の通り、当時の高名な作曲家ジャン=フィリップ・ラモーの甥がモデルになっています。
ところが本人はというと、パリの裕福な人々が集まる場所を毎日のように渡り歩き、おべっかを使って食事にありつくような生活を送っていました。
ところが、ある裕福な人を怒らせてしまい、無一文になってしまう。
今回取り上げられたのは、そんな彼が、自分自身を罵り、責め立てる場面でした。
「パリにはご馳走の出る食卓が1万はある」
彼は、自分自身に問いかけます。
パリには、ご馳走の出る食卓が1万はあるのに……。
Il n’y en a pas un pour toi !
※お前の座る席は一つもないというのか?
だったら、ほかの人たちのように、おべっかを使えばいい。
嘘をつけばいい。約束して、守らなければいい。
四つん這いになって、這いつくばることができんのか、お前は。
――そんなふうに、自分自身を罵ります。
そして最後には、
Hé, quoi ! Tu possèdes ce talent-là, manques de pain !
※大した才能がお前にはおありになるっていうのに、パンにもありつけないのか!
と言う。
先生の解説では、ここでいう「才能」とは、芸術的な才能というよりも、「個人の社会的上昇を可能にする能力全般」を指すそうです。
私は、ざっくり言えば「処世術」のようなものなのかな、と受け取りました。
つまり、
「才能がないから成功できない」
という話ではないんです。
むしろ逆。
才能があったとしても、それだけで社会の中で認められるとは限らない。
そのことを本人が嫌というほど分かっているからこそ、嘆いている。
では、「社会に認められる」とは、いったい何なのでしょう。
この文章を読んでいて、私はふと映画『アマデウス』を思い出しました。
『アマデウス』を思い出した

映画の中のサリエリは、宮廷社会を生き抜く処世術を持っています。
一方のモーツァルトには、圧倒的な音楽の才能がある。
でも、モーツァルトは権力者との付き合い方が上手いわけではありません。
サリエリは、そんな彼の才能を羨み、憎み、そして追い詰めていきます。
もちろん、映画『アマデウス』の物語と、
『ラモーの甥』をそのまま重ねることはできません。
でも、
「才能があること」と「社会をうまく渡っていけること」は、別なんだな。
そんなことを考えました。
そして面白いのは、どちらも、それだけでは幸福になれないことです。
才能があっても苦しい。
処世術があっても苦しい。
では、人間はいったい何があれば幸せになれるんだろう。
そんなことまで考えてしまいました。
「評価されること」と「価値があること」は同じなのか
そして、ここまで考えていたら、ふと現代のことを思いました。
今はSNSで、毎日のように「評価される人」が目に入ってきます。
たくさんの「いいね」がつく。
フォロワーが増える。
投稿がバズる。
映える写真が拡散される。
それを見ていると、ときどき、
「評価されること」と「価値があること」が、いつの間にか同じになっていないだろうか。
と思うことがあります。
昔は、権力者の食卓に座ることが、社会の中で生きていくための一つの方法だった。
今は、アルゴリズムに選ばれることが、それに少し似ているのかもしれません。

もちろん、SNSを楽しむことが悪いわけではありません。
私だって、かわいいものは好きだし、流行を追うのも大好きです(笑。
ただ、
「たくさんの人に評価されているから、自分にも価値がある」
となってしまったら。
ちょっと怖い。
そう思ったところで、ラモーの甥の言葉が、また頭に浮かびました。
『l’inutilité des dons que le ciel nous a départis;』
※天から授かった才能が無益である
もし「評価されること」だけが価値の基準になってしまったら。
自分が持っているものを誰にも評価されなかったとき、
人はそれを「無益なもの」だと思ってしまうのかもしれません。
……なんだか、18世紀の文章が急に現代の話に見えてきました。
私だって「評価されたい」
……なんて偉そうなことを書いていますが、
私自身も、もちろん評価されたいです(笑)。
ブログを書いていても、
「誰か読んでくれないかな」
「この記事、面白いと思ってもらえるかな」
と思います。
自分が大切にしているものを、誰かに「それ、いいね」と言ってもらえたら嬉しい。
でも、自分の中に「これには価値がある」と思うものがあったとしても、それを誰かが認めてくれるとは限らない。
そして、認められない時間が長くなると、
「もしかして、価値がないのは作品じゃなくて、自分自身なんじゃないか」
と考えてしまうことがある。
ここで、またラモーの甥の言葉が刺さります。
『Il vaudrait presque autant que l’homme ne fût pas né.』
※こんな人間は生まれてこようがこまいが、大して変わらない。
ここまで自分を責めてしまうほど、彼は「自分には価値がない」というところまで追い詰められていたのかもしれません。
自分の価値を他人に預けたくはない
ディドロが『ラモーの甥』で何を伝えようとしたのか。
私には、まだ難しくて全部は分かりません。
ラモーの甥は、自分に何らかの才能があることを知っている。
それなのに、それが社会の中では何の役にも立たない。
その現実が、彼を苦しめている。
でも、そこから私は、
「役に立たない」と「価値がない」は、本当に同じなんだろうか。
と思いました。
誰かに評価されないものは、本当に価値がないのだろうか。
私自身も、評価されないと不安になることがあります。
だからこそ、今回の文章がこんなにも刺さったのかもしれません。

でも少なくとも私は、
評価されないことと、価値がないことは、別の問題なんだ。
そういうところに、一度着地してみたいと思いました。
18世紀に書かれたこんな文章を、21世紀の日本でフランス語の勉強をしながら読んで、
「……分かる。なんか刺さる」
と思っている自分がいる(笑)。
文学って、不思議ですね。
何百年も前の人が書いた言葉が、時代を越えて、突然こちらに向かってくる。
今回のフランス語は、かなり難しかったけれど。
この一節に出会えただけでも、勉強した甲斐があったなと思いました。

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